アイイロの巣穴

中央からはずれてほそぼそ生きてる女の読書やドラマの感想ブログ

フェミニズムの視座からもワクチンと現代医療は批判すべき

はじめに

どうも藍色です。今回の記事はたぶんこのブログ自体を読む人が減るだろうなと思いながら書きます。この記事は平たく言うと「反枠」です。

ただ、反ワクチン(というよりワクチン疑義派と言うべきだと思う)とひと言で言っても、訴えてるのも男ばっかりだし訴えかけ方も女に対して「不妊になるかも!」って言い方ばっかりだし。女の不利益はそこじゃねえよ感。だからワクチン警戒にプラスして、フェミニズムの視座から書きたいと思ったわけです(ワクチン警戒についての基本的な情報は、良心的な医者の発信や告発者の動画や本で得られると思うのでここでは省きます)。

フェミニズム系の女性たちで、現在のコロナ予防やワクチンに怒っている人をほとんど見かけられませんでした。それどころか、女性ほどマスクを外してないし、フェミニズム系の女性たちほど打ちたがってる。学問も医療も女を排除し続けてきたのをわかってるのに、現代医療を疑わなすぎなんですよ。

特に今回のコロナワクチンは、女性のほうが副作用強くて死亡率も高いのに、そしてそれを意図的に放置してるのに、なんで怒らないんですか。なんで打ちたがるんですか。もはや流行り物かステータス扱いですよね。同調圧力で打ってないって言えますか?

 

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重篤な副作用ばっかじゃん。

 

筆者は薬害被害者です

筆者が現代医療とワクチンに懐疑的なのはひとえに自分の身体で知ってるからです。

薬害といってもピンキリなので、筆者の経験すら「なんだその程度か」と思う人は絶対いるだろうと思います。以下は薬害の遍歴。

・生後間もなくアトピーステロイド

・小学生〜中学生あたりに更に強いステロイドが継続処方、浸出液が出続けるのでガーゼ生活。

・農薬のある野菜や果物を食べると痒くなる。外国産とうもろこしの入った菓子を食べて発疹ができた。

・高校〜大学あたりに病院を変え、ステロイドを弱めにして一時的に改善。皮膚に黒ずみが残る。

耳鼻咽喉科にて聴覚過敏かどうかを診てもらうが、「原因不明」で終わる。血行促進剤のカプセルが処方されるが、鼻血が頻発する。

・某年、PM2.5のかなり濃い国に滞在し、アトピーとびひ、湿疹、蕁麻疹が日に日に増えていく。東京上陸後、症状の進行は収まる。

とびひに対し殺菌剤処方、症状は収まる。

・脂漏性湿疹になるが、ステロイド剤を処方されるだけで終わる。医師曰く「原因不明なものは薬塗って症状止まるまで待つしかないです」⇨筆者はこのあたりから現代医療への疑念が湧く。

・皮膚科で疣を切り、傷口に抗生物質が塗られる。1年後、再び同じところから疣が生え、痛みも伴う。

とびひ再発。皮膚科に行くも、なんと「しもやけ」と誤診。病院を変え、とびひの診断をもらうが、殺菌剤と抗生物質が処方される。

・数ヶ月後にとびひが収まるが、以降は心身に負荷がかかるたびにとびひをぶり返すようになる。*1

・次亜塩素酸を撒いた空間にいると目眩、吐き気がする。

 

これらは薬害、医原病のなかでも本当に一部だと思います。ですが、筆者が現代医療を信仰しなくなるのに十分でした。

 

そもそも女の身体に安全な薬がどれだけあるのか

西洋医学、現代医療の薬のほとんどが「健康な成人男性」を基準に作られていますよね。そしてその医療を支配してるのは男性ですよね。

wired.jp

 

女性用に作られていない薬や、医療における女性医師の排除と女性患者へのずさんな対応を、そして生殖を除いて、女性身体に特化した医療はおざなりにされていることを、女権を大事に思う方々ならよくご存知のはず。

普段ニュースや新聞の意図的な改竄や誇張、女性の被害の消去に気づき、報道の不公平さに怒り、メディアの矛盾点を見逃さない女性たちが、

なぜ医療の話になると、特に新型コロナウイルスと呼ばれているものと、その感染者(=PCR検査陽性者)と、そのワクチンの話になるとテレビやニュースや新聞を鵜呑みにできてしまうのか。

 


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↑これは薬の話じゃないけど、なにが「さすが」なんですかね。*2

 

医療が「権威」だということを忘れてませんか。

その医療も学問も権力で捻じ曲げられることができるのを忘れてませんか。

医療も学問も経済的利益から自由じゃないことを忘れてませんか。

 

学問的権威も医学も女性の健康と症状を軽視してきてるのを何度も見てるはずなのに、なぜ女性が、いや女性ほど、そこまで「真面目に」医療を信頼できてしまうのか。私にとっては不思議でなりません。

 

 

女子学生たちを呼びつけてHPVワクチン集団摂取→「今なら無料で打てる」「無料で打てるのはすごいこと」「がんは怖いんだよ?」 & 新型コロナワクチン→「今なら無料で打てる」「今なら特典つき」「コロナは怖いんだよ?」

これはある人から聞いた事例です。その方が当時通っていた大学で、女子学生だけをある教室に集めて摂取させたというものでした。教室では子宮頸がんの怖さやリスクやらを聞かせ、危機感を煽り、その場で「今なら無料で打てる*3」と「おトク」感を出していたとのこと。

本来、インフォームド・コンセントは薬や治療のメリットだけでなく危険性やデメリット、最悪効果が無いかもしれないこと、そしてその保障も得られないかもしれないことを説明するものです。誠実で良心的な医師は、インフルエンザワクチンですら「打ってもインフルエンザに罹らないわけではない。場合によっては打つメリットよりデメリットのほうが大きいかもしれない。副作用で体調が悪くなるだけで終わるかもしれない、それでも打ちたいですか」と説明してくれます。*4

にもかかわらず、デメリットを極力説明しないでメリットを前面に押し出すなんてまるで広告か宣伝。

心身の健康に関わることなのに不誠実ですよね。

そしてツイッターで表示されるようになったこれ。


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怖い。妊婦でも接種できると書けてしまうその倫理観の無さが怖い。

 

「試験薬を妊婦には投与したくないし、妊娠していることに気づいていないが、実際には妊娠中の女性にも与えたくないからです」 と、アーノルドは言う。1950年代につわりの治療にサリドマイドが処方されていた負の遺産が、妊娠中の女性に薬を処方する際には、いかに慎重でなければならないかを科学者たちに突きつけたのだ。サリドマイドが回収されるまでに何千人もの子供が障害を持って生まれた。

 

引用元『科学の女性差別とたたかう』 2章 女性のほうが病気になりやすいが、男性のほうが早く死ぬ

 

そしてこれ。

news.yahoo.co.jp

そうまでして打たせたいのは何なのwww

もはや感染対策の建前すらどうでもいいのがよくわかる。 

 

なぜおトク感*5を出す必要があるのか。

それはワクチンが商品だからです。

そこに倫理はありません。

 

子宮頸がんワクチンが如何に無駄で女の健康を害するものかは今さら説明は要らないと思ってます。ようは、ワクチンは商品であるので、不要なものであるほど危機感やおトク感を煽って消費させなければならないのです。

新型コロナウイルスワクチンでも同じ様なことが起こっているのがわかりませんか。

 

新コ枠、女性の高い死亡リスクに加えてわざわざ「不妊」を付随してる

ワクチン接種後、女性のほうが重篤な副作用が出て、最悪死ぬといわれてる。*6

で、そのワクチンは「免疫をつけさせる」という建前がある。しかしその実は有害物質で免疫が下がって重篤な副作用とサイトカインストームが起こると。ようは投与によって免疫を暴走させてるということですよね。

「調査を始めると、女性はおもな死因のほぼすべての疾患に対し、抵抗力が高いことがわかりました」

(中略)

 「本当にひどい感染症であれば、女性のほうが生き延びます。感染の期間としては、女性のほうが早く反応し、感染症からは男性より女性のほうが早く治るでしょう」と、キャスリン・サンドバーグは言う。「さまざまな種類の感染症で検討すると、女性の免疫反応のほうが安定しています」。女性が病気にならないというわけではない。病気にはなるのだ。ただ男性ほど易々と、あるいは早々と病気で死ぬことはないのである。

 引用元『科学の女性差別とたたかう』 2章女性のほうが病気になりやすいが、男性のほうが早く死ぬ

うん、女性なら尚更ワクチンいらねえじゃん。

その一方で、女性は自己免疫疾患に罹りやすいんだよね。

「自分自身を異質なものとみなし始め、免疫システムが自分自身を攻撃しだすのです」

 (中略)

ウイルス感染についてもやはり、女性の強い免疫反応は有利にもなれば、問題を起こすこともある。

 引用元『科学の女性差別とたたかう』 2章 女性のほうが病気になりやすいが、男性のほうが早く死ぬ

これを踏まえると、女性のほうがその副作用、サイトカインストームが強く出るのは当たり前。

 

そしてわざわざ女性とその妊孕性を狙って配合されてる、というところがポイントだと思います。不妊そのものが問題なんじゃない。

これについては多くのワクチン疑義派や告発者が指摘する通り、人口削減と人口管理だろうなと思ってます。*7完全に女を「産む機械」と見なしているから。子供を生むかもしれないから、人口を増やすかもしれないから、女が死にやすいものを打つ。

これが女性差別でなくてなんなのか。

これがフェミサイドでなくてなんなのか。

 

仮に「人口削減⇢不妊」なら、女性の意思で避妊手術ができないのはなぜ?

正直「不妊」になるだけの薬なら私も打ちたいし、人口が減少傾向になるのは寧ろ良いと思ってます。でもそれならスペインのように避妊手術をやればいいし、スイス等のように安楽死を実施すればいい。

そして人口を増やしたくないなら、女の子宮を狙うよりも、女の妊孕性を狙って加害する連中を潰せばいい。男の性欲と加害欲を消すような薬を散布すればいい。

それこそ反出生主義や反生殖賛美が増えればいい。でもそうはならないのはなぜか。

女性の死亡リスク高+不妊+避妊手術不可+生殖賛美温存=万が一産む機械が死ななくても女の身体で金儲けは継続できるもんね。

不妊になれば、ナタが人工妊娠にこぞって金をはらう。そして生殖臓器に毒物が溜まれば、月経異常もPMSもさらに増えるだろうね。非合理的な身体に「合理的な薬」を売りつけることができる。医療で女がいくら損しても消耗しても気付かれないでしょう。女は元々症状を大げさに言うから。女は薬の副作用が出やすいから。

 

結局犠牲になるのは女の身体とQOLですよ。

 

医療は信仰である

以下は会話のスクショです。非常に重要な言葉が登場します。

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敢えて補足するならば、科学的根拠とされるものは学問的権威から自由ではなく、科学的根拠とされるものが必ずしも事実を拾い上げて反映してくれるとは限らない。ということだと思います。

 

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はい。「医療は宗教か?」と問われれば、そうなんですよ。

医療は、いや医療も宗教であり信仰なんですよ。

 

baby-skin-rash.com

ロバート・メンデルソン医学博士は、「医療異端者の告白」という本の中で、医療機関の「権威」に対する信念が見当違いであることを指摘しています。

現代医療は、人々の信仰なしでは成り立ちません。

医療に対して疑問を持つことで、この信仰から解放されます。

現代医療だろうと最先端だろうと、わかっていないことのほうが多いし、逆に読み取りすぎてしまうがゆえに間違っていることも多い。

fMRIの脳スキャン画像がいい例。*8

2005年にクレイグ・ベネットという、当時、ニューハンプシャー州ダートマスカレッジ修士1年目の学生が機器テスト実施したところ、脳のスキャン画像からはほぼどんなことでも読み取れることが図らずも明らかになった。彼と院生仲間は冗談で、真面目な科学的調査を始める前に、まずはfMRIの機器のなかに入れられる最も風変わりなものを探し、それを機器の測定に役立てようと考えた。彼らはまずカボチャから始め、最後にはビニールで包んだ全長46センチほどのタイセイヨウサケの成魚の死体を試した。数年後、ベネットはこのサケの古いスキャン画像を掘りだした。その画像は、批判の声が正しいことを証明し、最高の技術ですら誤解を招きうることを明らかにしていた。魚の脳の真ん中に、しかも死んだ魚の脳に、小さな赤い活動領域が3つ集まっているのが示されていたのだ。

 引用元『科学の女性差別とたたかう』 4章 女性の脳に不足している5オンス

PCR検査でもまさに同様のことが起こっている。*9

 

 

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私も同意します。

ちなみに医療法第一条の二↓

第一条の二 医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない。

効果が無いどころか有害なマスク着用と過剰な消毒、全然安全じゃない薬を推奨。全然良質かつ適切なものじゃないですよね。恐怖を煽ってリスクを隠して同調圧力で薬を売りつける。これのどこに生命の尊重と個人の尊厳の保持がされてますか?

現代医学とその薬は石油産業*10なので経済至上主義に走っているんですよ。政治家も医者も駒。

 

疑義=全否定ではない

筆者は「現代医療なんて無意味だからやめよう」と言っているわけではありません。反知性主義だからといって水銀で仙人を目指したりしないですし、煙草で不老不死になろうとかするわけじゃないですし、もちろん気持ちで性別が変えられるとも思ってない。

西洋医学は対症療法だから、緊急性のあるものには有用*11だと思いますし、東洋医学ホメオパシーでは不得意な部分、間に合わない部分を補っていると思います。

ただ私達が「最先端」と思っているものの程度を知るべきだと言っています。権力も政治も学問も、簡単に倫理をかなぐり捨てて動けるものです。医療も決してその例外ではないのです。陰謀論とかフィクションとか言ってる場合じゃないです。私達はそもそもフィクションが地続きな世界に生きているのです。*12

 

何度でも言いますが、それで犠牲になるのは丈夫な身体を持たない者たちと、女です。

 

打つ打たないの自由に文句を言うわけではなく、打ってしまったらもう後戻りできないし、打ちたくない人にまで影響を及ぼす*13ことを考えてほしいのです。

 

疑わなければ身を守れないのです。

 

 

 

*1:現在はホメオパシーで治療中。とびひも完治とはいかないまでも今のところぶり返しておらず、軽めのアトピーステロイド要らずになった。

*2:さすが女性はルールを守るしえらい人の言う事をきくようによく洗脳されてるね!ってこと?

*3:税金だろ

*4:筆者が実際にインフルワクチンを打ちに行こうとした時の医師の対応

*5:筆者の地元でもワクチン接種者は割引になる店とか出てきた。

*6:ていうか死んでるよね

*7:意味わからない?陰謀論?何を思っても信じても自由だけど、何が起こってもおかしくないし、起きてからじゃ遅いですよね。

*8:女性脳男性脳をスキャン画像で強化したやつ。

*9:回数を増やすほど陽性になりやすく、その回数規制もなく、コーラでも陽性になるのは有名な話。

*10:現代医療の薬の原料は石油。

*11:ホメオパシーでも、西洋医学の処置が必要な場合を認めている。

*12:『ヴィンチェンツォ』すごくタイムリーでおすすめ。

*13:ワクチンパスポートもマスク・消毒・体温測定強制もぜんぶ人権侵害だよ。

【雑談】私の論文から「女性」が消された日

はじめに

どうも、ブログ筆者の藍色です。今回の雑談テーマは正直表に出すのが少し怖いのですが、学生としてポンコツジェンダー学教員(もちろんTRA)に関わるとこんな目に遭いますよという体験談です。ほぼ愚痴です(笑)。しかし昨今の様子からもあんまり笑いごとじゃないので書きました。

  

当時論文に書く予定だったもの

 身バレ防止の為に詳しくは書きませんが、主に女性を顧客にしている女性自営業者たちの可能性について書く予定でした。平たく言うと女性が運営する女性専用カウンセリングみたいなところ(お店の形態は様々なので表立ってカウンセリングルームとは書いてないところが殆ど)で、そこに集まる女性たちのニーズを分析すると、医療や教育、福祉制度からの排除が関係していたわけです。女性たちが無知だからじゃないよ、制度が女性たちを排除してるんだよ。女性自営業のお店はバカにされがちだけど、現状社会資源として使えるものが無いんだから、問題視するならそういうお店に行く女性達じゃなくて福祉制度のほうにしなよ(ていうかケチつけてるヒマあったら公的サービスの女性専用支援スペースを用意しろ)。ということを書こうとしていたわけです。

 しかし論文は完成させることができませんでした。教員が、論文中のある単語にずっとケチをつけて来たからです。今でこそわかりますが、不幸にも、当時の私の担当教員がTRAだったのです。

 

 

「"女性とされてる人たち"でしょ?^^」

 これが担当教員から言われた言葉でした。誇張でなくほんとにニコニコしながら言われたのです。最初は冗談半分で言ってるのか、本気で言ってるのかわかりませんでした。しかし、私が論文の下書きを持っていくたびに言われ続け、言ってくるたび教員がだんだん真顔になっていくのでようやく理解しました。「こいつ本気で言ってるんだ」と。本気で、私の書く論文から"女性"という文言を消そうとしてるのだと。というより、セックス女性(female)をそのまま無印で「女性」と書くことを許さないのだと。

 

「女性の支援って書いてるけど、女性だと的確じゃないので女性とされてる人たちって書いてください」

「この、女性対象ってどいう基準なんですかね?トランス女性は含まないんですかね?」

「女性専用じゃなくて女性とされてる人たち専用でしょ」

 

ついには私がふつうに発言する時に女性と言うことすら「女性じゃなくて女性とされてる人たちでしょ?」と突っ込まれる始末。最終的には身体が拒否して、教員と会う度動悸がして、論文が間に合わなくなってしまいました。

 教員には、私が言うことを聞かないうえ、急に書けなくなったと思われていましたが、私は急に書けなくなったのではなく書けなくさせられたのです。

 

 

TGismについて知らされなかった学生たち

 当時は今ほど話題に昇ってないのもありましたが、LGBT支援が最先端というか、そういう"空気"がありました。ジェンダー論の最先端といえばバトラー!ボーボワールなんて古い!セックスはジェンダーだ!生物学はジェンダーなんだ!シスはマジョリティ!性別はセックスで決まらない!的な。

 ジェンダー学の外部講師としてトランス女性(戸籍性別変更なし、ホルモン注射はしてたらしい)を招いたこともありました。お陰で、学生たちはノートに「トランスのひとたちはランドセルの色分けにも違和感がある」などとメモする現象も起きました。ジェンダーを拒むのにトランス()もクソも無いんですけど、これを注意する教員はいませんでした。なぜなら、そこにいた教員はTRAだから。教員はこう言ってのけました。

 

「規範によって救われる人もいる」

 

規範によって救われる人(てゆーかオスだろ)もいるから、ジェンダーという女性(female)差別装置を温存してもいいと…(白目)。

 むろんセルフID制度が何をもたらすのかについて、講義でもまったく知らされなかったのです。「その人を尊重して、性自認で扱う」と言ったって、学生たち(当時の私も)がイメージしてるのは、その人と対面した時にその人が呼んでほしい名前で呼ぶとか、その人がすきな格好をするとか、せいぜい「個人的な関わり」程度でした。まさか生物学的男性が女子トイレに入れるとか、レズビアンの定義自体を否定するとか、女子スポーツが侵犯されるとか、そもそも身体的女性専用スペース自体が差別になるとか、女性の定義自体が簒奪されるとか、そんなこともOKになるなんて誰にも知らされませんでした。

 まさかそんなことが。である。そんなことが、起こり得るのです(ていうか起きてる)。↓

 

note.com

 

 

おわりに 無知だからではなく、もう譲りたくないし譲る必要もない

 女性とは単体で女性(female,xx)でしかない。トランス女性()という単語に対していちいち身体的女性とか、生物学的女性とか、書かなければいけなくなってること自体に筆者はかなりうんざりしてるのです。少なくともブログ筆者が、つまり私が、このブログ内で「女性」と書く時はこれからも「女性=female」のみです。そもそもTGismに反対してる人たちの多くは元々、私も含めて、アライが多かったわけです。無知だから反対してるんじゃない、無知だから「保守」に投票するんじゃない、むしろ「知ったから」です。

 無知/無恥というべきは、市井の女性たちの実生活を、そのなかで割かれるリソース(精神的にも肉体的にも経済的にも)を、背負わなければならないトラウマを、なんにも考慮しないどころか一生実感することもない、既存の論をなぞり積み上げて言葉を改変していくだけで「知性」を保持した気になってる、弱者への想像力を欠いた無教養な学者やペニス保持者たちです。

note.com

 

 

 筆者の体験談なのでだいぶ悪態つきましたが、今回はこれで終わりです。ブログなんで。

 

 

 

 

 

【雑談】私たちは男と恋愛しないが、ヘテロ女性/バイ女性だ。

はじめに

 どうも藍色です。積ん読が多すぎて全然レビュー書けてませんが、Twitter見ててどうしても気になったので書きました。ミサンドリーなのでレズビアンになりました、とか。男性恐怖症なので同性愛者でしたとか。非恋愛なので選択的レズビアンですとか。

 筆者の主張はもうタイトル通りなんですが。バイならバイだし、ヘテロならヘテロでいいじゃないですか。貴方のヘテロ性やバイ性は貴方の男性恐怖症やミサンドリーを否定するものではありませんし、逆も然りで、貴方のミサンドリーは貴方のセクシャリティを否定するものではありません。

 

バイセクシュアルを名乗りたくない?

 まず、ブログ筆者の藍色のセクシャリティバイセクシュアルです。筆者は多くのヘテロ女性と同じように男に恋愛感情抱いたことがあります。そして女性にも恋愛感情を抱いたことがあります。よってバイセクシュアルです。しかしミサンドリーなのでオスと恋愛するとか拒否感以前に無理だし、ましてや性愛とかおぞましいしで無理になりました。なのでバイセクシュアルだけど男と恋愛しません。終わり。

 としたいところですがこの流れが何故か起こらず、ミサンドリーなので(或いは男性恐怖症なので)同性愛者です。みたいな主張がまかり通ってるのは何故なんでしょう?筆者なりに考えてはみたんですが、どうにも…「名乗りたくない」と思ってるとしか思えないんですよね…。というのも、彼らがバイセクシュアルという概念を知らないとは思えないのです。敢えてとぼけてるというか。

 では何故「名乗りたくない」んでしょうか?それを考えた時にふと思い出したのが「LGBTはかっこいい」と言われたみたいな話をしていた動画でした(一応探してみたんですが見つかりませんでした…最後に見たのは確か4年前くらいです)。いずれにしても、流行りとしての人権活動とかライフスタイルとしてのフェミニズムに近いものを感じざるを得ません。

 ちなみに今YouTubeLGBT関連を検索するとほぼほぼジェンダーカルトですね…。パンセクシュアルの定義がいつの間にか「好きになる人の性別にとらわれないから男らしさ女らしさに惹かれない人」って紹介してるのもありましたけど、いつから恋愛や性愛はジェンダーに惹かれるのが前提になったんですかね(恋愛や性愛にジェンダーゲーム的な要素が含まれるというのはここでは触れない)。あれらはもはやセクシャリティとかの話題じゃないですよ。

 

 仮に自衛として名乗らない・名乗れない現状があったとしても同性愛者を名乗れば良い理由にはならないですし、この手↓の場合はLを名乗っても解決しないですね。

lgbter.jp

 

 

消されるBと盗まれるL:結果としてヘテロは成立するが、結果としてレズビアンは成立しない

 LGBTの概念は実質GGTTだというのは、いつものY性優先なのも含めてではありますが、ようするにBが消されてLが簒奪されてるからですね。上記の記事のB女性への視線も「コンテンツ化」で、Y性優先。Lの定義を「セックス女性を対象とするセックス女性」から「性自認が女性の人を対象にする」と変えてしまうのも、「ポルノコンテンツ」としてのレ◯呼びも、Y性優先。

  同時に、Lは同性からも同じように都合良く扱われてますね。フィクションにおける「健気なL」はもちろんですが、筆者がここで一番書きたいのは「選択的レズビアン」とかいうやつです。オスを拒否し、女性との連帯を強化するという意味で「女は女を愛そう」というもの。この概念に直接の恋愛がどこまで含まれてるのかよくわからないんですが(たぶん、女性femaleこそ女性femaleのことを大事に考えようだと思われる)、女性との連帯や絆を名乗るのにわざわざ「レズビアン」を使うのは何故なんでしょうね。コンテンツとしての百合作品のテーマが女性との連帯/女性同士の絆を扱うことがあるのはわかりますが、「女性同士の絆=百合、レズビアン」ではないんですよ。

 「男性恐怖症だから/ミサンドリーだから結果としてレズビアン」?言いたいことはわからなくもないですが、"結果としてレズビアン"は成立しないんですよ。”結果としてレズビアン”が成立しないのは、ヘテロ性とレズビアン性が非対称だからです。名誉男性名誉白人が成立するのは、男性や白人が特権階級だからです。名誉〇〇の〇〇はマジョリティです。選択的黒人とか選択的女性とか言えるとしたらそれは元が白人や男性だからですよね。選択的女性はもうやられてますね、トランス女性って言うんですけど。

 B女性がLと違うのは、なろうと思えばヘテロ擬態ができてしまうという点です。異性愛中心主義社会においてどんな人物も「ヘテロ前提」として見られてしまうのとは別で、B女性は両性を対象とする時点で「ヘテロに吸収される」ということです。この側面においてB女性はLからの信頼がありません。いつでも吸収される可能性があるからです。

 そして皮肉なことに、B女性がB女性として可視化されるのは異性愛を経験したうえで同性と付き合う時だけです。同性に恋愛感情を抱いたことがあるだけで結局異性(つまりオス)と付き合うのであれば、それは結果としてヘテロ女性だからです。

 

ジェンダー(女らしさ男らしさ)に違和感あるから性別違和です的なものを彷彿とさせる

 「LGBTはかっこいい」に通じるんでしょうが、 マイノリティ性に特別感を見出してるように思えてならないんですよね。マジョリティ/マイノリティは単に数の多さではなく、その関係の権力勾配がつきものですが、単に数が少ないからという理由で見てる。あるいは「自分は特別だ」と思うから、ジェンダーが社会的な影響を及ぼす概念だと気づかない。ジェンダー規範に違和感があるのは女性を抑圧し管理するためのツールだからですが、なぜか「ふつうの女性」は違和感が無いものと思ってるわけですよね。

 「ふつうの女性」が違和感抱えつつ生きているとは思わないのは、「ふつうの女性」の人格を認めてないからですよね。「ふつうの女性」たちがジェンダー規範に違和感を覚えてて、自分の身体性や生殖機能に不快感を持ってて、社会的な地位のことを考えていて、男性に対して嫌悪感や恐怖症を抱えているのを想像してないんですよね。だから「シス」とか「X」とか言えるんでしょう。

 あえてジェンダー規範に則るのが好きな女性がいるのは前提としても、ジェンダー規範に違和感を覚えるのは「特別」だからではなく、人格がある人間だからです。そして「ふつうの女性」も、人格がある人間なんですよ。

 

フェミニズムミサンドリーセクシャリティも「ライフスタイル」じゃないです

 結論は結局これにつきると思います。フェミニズムミサンドリーセクシャリティも、個人の生き方やり方の問題じゃないんですよ。フェミニズムは女性が男性中心社会のなかで快適に飼われながら生きる方法ではないし、ミサンドリーは"結婚してもいい男"をサーチするためのツールではないし、セクシャリティは女性が"いい男"を見つけるまでの間ほかの女性を利用するための口実ではないんです。

 フェミニズムは女性身体者(female)のための人権活動ですし、ミサンドリーは女性が生きるための防衛本能ですし、セクシャリティは身体性と同じただ性的指向の事実です。

 そしてヘテロ女性やバイセクシャル女性がこれらを両立させるのは可能です。ヘテロ女性は恋愛や性的対象が男であるというだけであり、それは男と恋愛性愛しなければならない/男と恋愛性愛しなければ生きていけないという意味ではないからです。同じくバイセクシャル女性は恋愛や性的対象が女性と男性の両方であるというだけで、女性と男性と両方とも恋愛性愛しなければならない/しなければ生きていけないというものではないからです(こんな当たり前の事を言わなければならないなんて…)。

 ミサンドリーヘテロ女性/バイ女性、男性恐怖症のヘテロ女性/バイ女性、または非恋愛を貫くヘテロ女性/バイ女性は、ただ「男と恋愛しないヘテロ/バイ女性」なだけです。「男を対象としない女性」という点ではレズビアンと重なる点はあっても、それは「レズビアンと同じになった」ことを意味しません。

 

なので、

ミサンドリーヘテロ女性です。

ミサンドリーでバイ女性です。

ミサンドリーで男性恐怖症で(以下同文)

・非恋愛でフェミニズム支持でヘテロ女性です。

・非恋愛でフェミニズム支持でバイ女性です。

と言いましょう。

 

ミサンドリーバイセクシャルの女性(female)で反生殖賛美で脱コル実践中の藍色からは以上です。

 

 

 

 

 

男にとってのつまらない、わからないは女にとっての安心&面白い『茶匠と探偵』感想

はじめに

 どうも、ブログ筆者の藍色です。今回も小説のレビューを書いていきます。ミステリ小説ではありませんが(部分的にはミステリ?)、女性主人公ものフェミニズム小説として、個人的には『ベイカー街の女たち』以来の感動があり、おすすめしたいと思える作品です。分厚い単行本で読むのに時間がかかってしまい、そのうえ一話一話の重みがあり、なかなかブログにできませんでしたが。読み進めていくほど、某通販レビューで「よくわからん」とか「つまらん」とか言われていた理由がよくわかりました。男には理解できない内容ばかりだからです。

※ブログタイトルは映画ゴーン・ガールの「男にとってはフィクション、女にとってはノンフィクション」というコピーが元ネタ。

 

『茶匠と探偵』とは


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 アリエット・ド・ボダール(Aliette de Bodard)によるシュヤ宇宙(スペルはXuya)シリーズの初邦訳本です。著者はこのSFシリーズを既に何冊も出しているようで、そのうちのいくつかの作品を邦訳用に編集して出版されたのが今回の短編集『茶匠と探偵』です。

 白人に侵略されなかったアジアの宇宙が舞台ということで、文化のマジョリティが中国だったり、表紙の通り登場人物は中華風やベトナム風の衣装を着ていたり、政治は古代中国の朝廷がモデルだったり、宗教が仏教系だったり、文化や食べ物が東南アジア風(主にベトナム)だったりします。シリーズの特徴として、深宇宙と呼ばれる特殊な空間と、人間から産まれる船魂/胆魂を宿した船(有魂船:人格も性別もあり、船魂を産んだ女性とは家族になる)が登場します。

 

主人公がほぼ全員女性

 短編集ですが、一話をのぞくすべての話で当たり前のごとく女性が主役でした。作中で上の役職についてるのも女性。男キャラクターもいなくはないですが基本脇役。これは著者によって意図的にミラーリングされているようです。名前がついてるキャラクターは基本的に女性だと思っとけば合ってるぐらいの勢い。一部名前のある男も出てくるけど脇役です。

 

"女ことば"を話す女性キャラクターがほぼ出てこない

 ゼロではないんですが、ほぼ登場しません。翻訳本としては嬉しいポイント。口調がフラットなだけでなく一人称も"私"じゃなかったりします。現実の女性たちの口調に近いです。

 

特におすすめの3話

①船を造る者たち

 有魂船を設計する仕事をする女性(ダク・キエン)と、船魂を産む女性(ゾキトル)との関わりの話です。女性の地位と身体がどんなものであるか、どんなふうに扱われて来てるのかが明確に描かれてます。「産む」ことを放棄した女性がどんな仕打ちを受けるのか。逆になんの後ろ盾も持たない女性が「産む」ことを選んでいくとはどういうことか。出産が、つまり女性の身体を犠牲にして得ているものが何なのかを改めて実感します。

 また、ダク・キエンの同性パートナー、ハンの台詞がいいです。

「おまえは誰かのおもちゃでも奴隷でもない―とりわけおまえの一族のおもちゃでも奴隷でもないんだ」 

そしてダク・キエンとハンの立場は、現代に生きるほとんどの子なし女性(単身でも)の境遇そのものです。

二人は、そして同性関係を結んだシュヤは誰であっても、子どもを持つことは無い。仏壇で線香をあげてくれる者はいない。死んでからその名を唱え、称えてくれる声もない。生きている間は二級市民だ。祖先に対する義務を常に果たすことができないからだ。死ねば蹴とばされ、忘れられる―初めからいなかったように消される。

そしてハンは子どもが欲しいと思ったことは一度も無かったし、これからもあるはずはない。

 

②包嚢 

 これはもう、完全に「コルセット」の話ですね。本章の説明に”異文化に適応しようとして自分を見失う女性”とありますが、これは「異文化」などという言葉で表すには甘いと思いました。その装置によって適応しようとしてる側がマイノリティであることが重要な点です。マジョリティの規範に沿うように、見た目を変え、思考を行動を仕草を指示してくる装置。これはそのままジェンダーにも置き換えできます。そしてこの「装置」は、女性に生まれたら、障害者に生まれたら、少数民族に生まれたら、とにかくマイノリティ属性を持って生まれた者なら誰でも着けさせられているものです。

 

コルセットについての詳しい記事はこちら↓

shigatu-baka.hatenablog.com

 

ルッキズムや美に固執した、あらゆる装飾や服飾、「女性らしい」と社会から推奨・賞賛される女性の立ち振る舞いや女性に押しつけられる価値観すべてが「コルセット」である。

 

①周囲から褒められたり高評価を得ることができるなど承認を受けやすくなる。②社会的要請に添った言動なので周囲から中傷や暴力などの懲罰・加害行為を受けずに済む可能性が若干だが高くなる。③故に男(女性は含まない。現行の社会構造においては、女にとって男を得ることが「利益」になるからだ)を"獲得"できる可能性がある、というような利益が挙げられる。

 
③茶匠と探偵

 表題作ですね。これは中編くらいの長さがあります。麻薬中毒の探偵(竜珠)とお茶を淹れる有魂船(影子)の組み合わせで事件に挑むミステリ。視点は主に茶匠のほうでストーリーが進んでいきます。両者ともつらい過去と対峙しながら事件解決に向けて行くわけですが…。

 竜珠はまさに女版ホームズ。「女版ホームズはこうやって描くんだよ!」というお手本みたいな感じの女性探偵です(蓮丈那智シリーズへの恨み)。

 

 

気になるところ

 著者によるアジア文化への尊重かな?と思われますが、基本的に「姉妹呼び」があります。韓国中国等で、年上の親しい女性を「姉」呼び/年下の親しい女性なら「妹」呼びしたりするあの文化が作中にもあります。

 あと、表紙のイラスト。デザインや構成も素敵だしよく描けてるとは思うんですけど、ホワイトウォッシュじゃね…??本作中の竜珠の登場シーンですが容姿については

肌は黒く、鼻は鷲鼻。

とありますね…。原著の表紙の竜珠はこれです(日焼け感がある)↓


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日本版の白さ…。↓


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 そして翻訳文が個人的にあまり読みやすくないなと感じました。原文があまり読みやすくないのかもしれませんが…。あとこれはファンタジーものあるあるかもしれませんが、設定を頭に入れるのに時間がかかってしまい読むのが大変でした。

  

茶匠と探偵はおすすめ?

 フェミニズムSF小説としておすすめします。特にアジア系の文化や雰囲気が好きな方ならより楽しめると思います。その一方で、やはり「アジアの大家族」がもとになっているだけあって家族主義的描写がとても多いです。作中における特権階級の多くは叔母で、あまり父権的ではないですが、かといってそこまで女性優遇的な世界でもないです。なんだかんだ妹の地位は変わりませんし。ある意味リアルです。無批判に描かれているわけでもないので、そういう点ではまだストレスが少ないです。筆者は個人的にアジア贔屓なところもあるのですきな作品になりました。

  また、単行本は分厚いうえ値段は高めなのでよほどこだわりが無いかぎりは電子版をおすすめします。

 

 

 

 

 

【雑談】いちばん下の妹の話

はじめに

どうも、藍色です。↓こちらの記事を見たときからずっと書こうと思っていたことが今回のテーマです。

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結論から言うと筆者は末妹(ココ大事)です。妹視点のフェミニズムがあまりにも少ないな〜と思ってるので加勢のつもりで、筆者の末妹としての身分を書いていこうと思います。個人的なことは政治的なことなんで。家庭内なんてまさに個人の政治だし…。

 

周囲から「姉」だと思われていた末妹

大学時代にクラスメイトからあることを言われました。

 

「藍色さんは絶対長女だと思ってた。下に弟か妹いると思ってた。」

 

その一方、同じく末妹だった別の女子に対しては

 

「Zは絶対末っ子でしょ。」

「あれはどー見ても末っ子だね。」

 

この2つの会話からある程度、筆者である私とそのZさんについての人物像がイメージできてしまうのではないでしょうか。そうです、世間一般で言われてるような「姉」のイメージ(落ち着いてる、我慢してそう←してそうってのがポイント、淑やかそう、しっかりしてる等)を持たれていたのが私です。逆に「妹」のイメージ(だらしない、甘えん坊、子供っぽい、奔放等)そのままの性格がZさんでした。

 ここで言いたいのは、筆者は姉と思われていたから得してたみたいなことではありません。むしろ、姉のようであると思われることが、末妹であることをより打ち消されるということです。同時に、「妹」のイメージを担保したままそれが行えてしまうということです。実際、私のような末妹がいたからといってZさんの「妹」としてのイメージは変わらなかったわけだし、Zさん個人のいい加減さとして扱われずに「妹」イメージとしての枠でしか扱われないわけです。

 

中間子は下に妹がいる限り風向きでどちらにもなれる

 筆者はいちばん下の妹、と書きました。はい、つまり筆者の上にはもうひとりいます。もちろんこれも姉です。中間子のムスメは、最初に上から自分を押さえつけられる姉という存在を持つ経験を経て、数年後自分の下に置ける者を持つことができます。

 ようは「共通の姉」を持つという点で、ある程度は末妹の身分を経験し共感できますが、「共通の妹」を持つという点でいつでも姉の身分を保持できるのです。中間子も妹であるため、一番上の姉に圧されれば妹になるしかありません。しかし姉である以上、自分より下の身分の者を差し出せたり召喚できるわけです。中間子の姉は末妹から見た場合、一番上の姉と比べてマシなこともありますが(妹としての利害が一致できることがある)、構造としては結局姉なのです。姉が二人になるってのはまぁ妹としては最悪です。否定✕2、母親が加われば✕3、父親も含めば…。

 そして中間子の歪みもわりと可視化されやすいことと思われます。真ん中だからもっと甘えたかったよね、お姉さんも妹さんもいて居場所がないよね。はよく聞く言葉ですが、お姉さんが二人もいて大変だよねは一度も聞いたことないですね!

  ダウントン・アビーのメアリーとかモロ「姉だなー」と思いますね。特にイーディスの幸福感をぶち壊したシーンとか…。シビルがいなくなったあとであれをやってるのが確信犯的で、イーディスがメアリーと堂々と不仲でいられたのも、下に妹がいたからだよなと思ってしまう(優しい妹は味方になってくれるから)。シビルも愛された妹ではあったけど結局都合いいキャラにされてるなと思わずにいられない…。実際「愛され」という名の緩衝材だし…。

 

妹のケア努力は無効化される

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「可愛いものはいつもErinで、いつも私には可愛くないほうが来た!」
「Erinに白いうさぎで、私に茶色いうさぎだった!」
「今は茶色いうさぎのほうがいいけど、その時は白いほうが良かった!」

 ↑読んだとき私の姉か!?と思いました。

姉が妹の自尊心をへし折る。筆者にも経験あります。たとえば姉には答えられなかった問題を解いたときには「いちばん下のくせに」「いちばん知識が無いくせに」と言われてきました。機序として姉より妹のほうが物を知らないのは事実ではありますが、この時の私は既に就学児だったので、本が読めていたんです。そして家族のなかで最も観察力があり記憶力が良いのも私でした。

 また、私が既に知ってることを「いや、知らないはずだ」と決めつけて教えを押し付けて、それを"素直に"受け取らなければ「知ったかぶってんじゃねーよ」と逆ギレしたり。私が良いと思ったものを否定して「姉好みに」改変したり。

 私が姉たちから受け取ってきたメッセージは"お前は自分で自分の実力を決めてはならない。お前は自分で「良し悪し」を判断してはならない。なぜならいちばん下の妹は無知で努力が必要だから。しかし姉たちより努力してはならない。なぜならお前の世代はゆとりがあるから。楽をしているお前の努力は努力ではない。楽をしているお前が上を慮るのは当たり前の功徳。それは苦労ではない。楽をしているお前がケアをするのは当たり前、それはケア労働にすらならない。"これに拍車をかけるのは世間一般の「姉」イメージとそれを鵜呑みにする母でした。そして、母もまた「姉」でした。

 地で「我慢」が認められる姉はヤングケアラーとして発見されやすい。しかしそれをケアする妹は無効化されていきます。ケアされる身分(=お世話される無知無力な妹)だと思われてるからです。ここで大事なのは"ケアされる身分"と"ケアを引き出せる身分"はまったく違うということです。後者はわかりやすくオス(或いは子持ち女性)そのものですが、前者は被支配者です。物理的に力の無い者、知識のない者、身体が弱った者等。DV夫ほど妻の介護を「熱心に」やる例がわかりやすいでしょうか。これが「妹」なら、最初から手足をもがれる状態に等しいのです。

  

弟がほしかった子供時代(家庭に憧れる毒親育ちの相似形)

 今はもちろんほしくないけど、筆者が小さい頃(小学生くらい)に、弟がほしかったのを覚えています。自分の下に置くなら絶対に弟がいい、妹はいやだ。自分と同じになってしまうから。自分が姉たちと変わらなくなるから。とよく親に文句を言ってました。小さいながらに「妹」の持つ消費性を理解していたんだなと自分で感心しますが、当時の私の言葉をいま分解すると、

自分の下に置ける者は妹であってはならない。その者が自分と同じ道を辿り不幸になるからだ。姉二人を見てきた自分が妹を持てば、辿る未来は姉と同じ圧迫者になることである。しかし同じ権力者にはなれないだろう、なぜなら私は妹だから。妹の身分から解放されるには、姉二人とは違う形で、私の"味方となるきょうだい"を持たなければならない。だからもし私がきょうだいを選べるなら、上の姉を消して弟を持つことが理想だ。

こう考えると、筆者はべつにきょうだいが欲しいってわけではなく、自分を一番下にすることがない自分の領域が欲しかったんだなと思いますね。毒親育ちの子どもが「毒親だったから、自分の居場所が無かった。将来は自分の家庭がほしい」と求めるやつの、きょうだいバージョン。下に置くなら男っていうミサンドリーも…。兄が欲しいと思ったことがないのは、おそらく姉がいるのと変わらないと思っていたからだと思います。筆者の「兄」のイメージは「身心ともより凶暴化した姉」です。そして上に男がいるのは、父親だけで懲りてたからだとも思いますね。

 「姉」にすらなりたくないと思ったのは、弟がほしいと思わなくなったのと同時期でした。きょうだいの呪縛そのものが要らないと思えたのは、大学の講義で家族社会学を受講して「家族」そのものへの疑義をたくさん言語化できた時から。根本は家族制度にあると気付けたからでした。

 

隙あらば「妹」にしたがる妹、或いは女ともだちのDV

 弟がほしかった筆者の相似形で、さらに思い出したのが同じく「姉二人を持つ妹」の女友達がいた時のことです。小学校で同じクラスで、趣味も同じだったため、よく遊びに出かけるほど仲が良かったものでした。しかし彼にはなんとも難しいところがありました。それは、①私にちょっと下でいてほしいと思っていたところ②私にいつも同じものを欲しがっていてもらいたがったところ③私にいつも憧れる気持ちを持たせたがっていたところ④それらが少し崩れるとすぐに落ち込んだり機嫌を悪くさせたりしたところ⑤私には同じことをさせなかったところ⑥私がそれを嫌と思っていないと疑っていないところ等でした。

 具体的には、①なら「藍色よりうちのほうが絵がうまいから」と思わせたり、筆者を呼び捨てにしておいて、筆者には呼び捨てにさせないであだ名+ちゃん付けを要求するなど。②ならおやつを一緒に買いに行って筆者が違うものを買おうとしたら、あれこれと理由をつけて如何に筆者が損するかを植え付けたり、彼がほしいものとは違うものを話したらそれをけなしたりなど。③なら、如何に筆者が彼より物を知らなくて技術がないかを植え付けたりしました。ここでも筆者は自分の実力を自分で決めてはならなかったのです。彼の知識の間違いを指摘しようものなら筆者がバカにされ、挙句の果てにはその間違いをしていたのは筆者の方であることにされてしまったり(ちょうどナタ勢が読み間違いをしてたのを反出生の側にしたりしていたアレ)。

 今でこそ言語化できますが、彼がなぜ私に①〜③を要求させたがったのか。①〜③の要求ができるのは「姉」だからです。彼もまた「妹」の身分から脱却できる「だれか」がほしかったのです。ちなみに⑥に気付いたのは、数年後に偶然再会した時に彼が喜んでいただけでなく、彼を思い出せない筆者に対し当時の学校名と本名ではなく「あだ名+ちゃん付け」を名乗ったからです。

 

おわりに 女だけの街でも「妹」は救われない

 妹としての身分を、筆者の経験をもとに書いてきました。もちろんこれは姉の身分が受ける差別や不利益をないものとして扱ってるわけではありません。むしろ、妹という立場は、その弱さ&女性ジェンダーゆえに「姉が如何にヤングケアラーとして扱われてしまうか」を痛いほど理解している側です。下の身分が安全に立ち回るなら、周囲を観察する必要があるわけですから、家庭内をよく見ています。家庭の構造を理解すればするほど、そのなかの男尊女卑と年功序列と姐尊妹卑(造語です、今勝手に作りましたw)をいやというほど思い知らされるわけです。

 「女だけの街」は、よく加害者のいない理想郷とされますが(勿論オスがいないだけですごく暮らしやすいだろう)、そこでも結局出生賛美を繰り返せば子持ち女性、単身女性の格差、母、姉、妹の序列は変わりません。

 女性間の格差を温存させる限り、姐尊妹卑がある限り、妹は救われないのです。

 

 

 

 

女性史官たちの葛藤と絆に共感する『新米史官ク・ヘリョン』感想

はじめに

 どうもブログ筆者の藍色です。久しぶりのレビュー、今回は韓流ドラマ『ク・ヘリョン』についてです。韓流ドラマに初めてハマったのは小学生くらいの時に偶然観た『チャングムの誓い』がきっかけで(同時期くらいにブームしていたマフラーと眼鏡と笑顔の男のほうではない)、そこから『トンイ』や『奇皇后』や『成均館スキャンダル』や『オクニョ』やら、歴史ものを中心に観ていくようになりました。そんななかでもぜひレビューしたいと思ったのが今作です。

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新米史官ク・ヘリョンとは

 主人公ク・ヘリョンは兄と2人で暮らす本好きな女性。特に西洋の小説や学術書を好んで読んでいたが、西洋の書物や大衆小説に発禁命令が出て国から取り上げられてしまい、さらに兄によって縁談も設定されてしまう。結婚から逃れる為に女性史官試験を受け、朝鮮王朝時代初の女性史官となる。

 作中もうひとりの主人公は幽閉されてる王子イ・リム。王族たちには内緒で小説家をやってるが、あることをきっかけにヘリョンに小説家であることをバレてしまう。

 作中は特にこの両者の恋愛模様がメインに描かれていますが(韓流歴史ドラマあるある)、筆者は今までの女性主人公もの歴史ドラマでありがちなモヤモヤが解消されてるなと感じました。以下はその詳細です。

 

女性史官たちの描かれ方がいい!


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 ほんとにこれが筆者的にポイント高いです。とにかくみんな仲がいい。その仲の良さに微笑ましさもあり、また視聴者としてもホッとします。男上司たちから徹夜仕事を押し付けられれば、その仕返しに上司の隠し酒を開けて4人で飲み会したり、そして仕事の休みにはピクニックに(画像はそのシーンですが、彼らが見物してるものがまたね…w)。

 彼らがそれぞれになぜ史官を目指したのかを打ち明けるシーンも。借金返済の為、結婚から逃れる為、身勝手な家族親族たちに振り回されない為などなど。共通してるのはみんな「自分のものを持つ為」に仕事を得ようとしたところです。

 女性主人公と仲のいい女性キャラクターのシーンは他の歴史ドラマでもありますが、何かのきっかけに仲違いして権力闘争になったり、誰かが側室になっちゃったり、死んだりしがち…。この作品ではそんなことはありませんので安心感があります。

※敢えての「彼ら」表記です。男なら「彼男」と表記します。

 

男しぐさあるある

 これらも笑ってしまうくらいよく描けてます。女性史官として初めて出勤するヘリョンたちに威張り散らす男官吏達、上司の娘であるサヒが来た途端には男性らしくおとなしくし、その場から立ち去って行きます。まさに「上司の娘にはやらないだろお前」を地で行くシーンです。

 また、芸文館の男史官たちは何かの面倒事が持ち込まれたり、何か不利な状況に立たされればすぐにこう言います。「女史官なんか入れるからだ!」、うーん男々しい。そして史官としての立場を守ろうとする彼男らは、最初は威勢が良いものの、だんだん弱気になり最後には「帰りたい…」と言う。そのくせ女性史官たちに飯の確保をさせる。日本のどっかで見たやつですね。

 ほかにも、王の怒りを買ったヘリョンにいやがらせするシーンでは早朝から呼びつけて仕事をさせたり、至密尚宮(チャングムの誓いにも出てきたアレ。トイレ介護+検便)の仕事を押し付けたり、わざと書き切れない量の書類の書紀をやらせたり、まぁ陰湿。そしてこの王、よく怒鳴る。登場するとほぼうるさい。弱いオスほどなんとやら。

 

史官という身分

 高くても正7品程度と、官吏達の中でもけして高い身分ではないのが史官です。史官の研修生であるヘリョンたちには官位すらありません。仕事も当時はパソコンなんて無いわけで、ずっと手作業で記録の書き写しや整理、徹夜作業も少なくない。しかしそんな彼らの特権は「記録者である」ということ。どんなに高い身分の官吏や、王族であっても、史官の記録を直接確認することは許されていません。また、王族が大臣や官吏をともなう場合(何らかの政治的取引や取り決めが行われる可能性が生じる場合)は史官を同席させなければならないという決まりもあります。

 記録者としての仕事を守り、記録したこと(のちの歴史的事実)を保護する為にあらゆる権力者の介入が許されないのが史官と芸文館。作中では、その前提が崩されそうになった時には仕事をボイコットして立て籠もるほど。しかも史官の多くは成均館の元学生でもあるので、完全に学生運動のノリで。

 ドラマではわりとコミカルに描かれてますが、現代でも記録改ざんは平然と行われてますし、彼らの仕事と使命はあまり他人事ではないんですよね。

 

それぞれの親との対立

 ヘリョンたちの上司であるミン奉教は権力の虜になった父親を汚点ととらえ、みずから史官の道を選んでいます。サヒは強欲な父親を恥じ入り、自分の意志で仕事を持ち親が搾取した財産を民に還元します。リムは父親に愛されない理由がわからないまま、それでも自分の身分でできることを考え正しいと思うことを貫いていきます。

 毒親系の話に共感する身としては、親とちゃんと対立できる子供が描かれてるのは安心ポイントです。やたらと「大事な家族のために」とか「病気の親のために」とか、家族美化的な内容を盛り込まれるとダメージ喰らいますね…。作中では家族の絆!的な要素が少なくていいです。

 

嫉妬する女性がいない

 これも今までならなかなか無いポイントですね。サヒのポジションは、今までだったら主人公を影で陥れるとか、葛藤しながらも自分の後ろ盾の言う通りにしておくとか(チャングムの誓いのクミョン的な)で自滅してしまうことが多かったように思いますが、「自分は何も持ってない」からこそ史官になったサヒは、駒としての宿命を拒否し、最後には自分が加担した不正の責任も取ります。

 また、とある経緯でサヒを呼びつけてしまった世子嬪は、自分の行いを反省するだけに留まらず、兄に「あの者を守ってください」とまで言える思慮深さと理性を備えてて素晴らしい。そして「自分を無理矢理嫁がせた父親」が諸悪の根源であることをしっかり理解している。後宮に入ってからずっと「繁殖」の役割を期待されて陰口を叩かれて孤独に過ごすしかなかった自身のつらさをちゃんと夫に言えるのもえらい。今までの歴史ドラマなら嫉妬に狂って女官とか虐めて自滅ポジション(これもめちゃくちゃ多い)ですが、ちゃんと生きて解放されます。

 

気になるところ

 主人公たちの身分は高めなので貧しい人にはあんまり焦点が当たってないかなというところ(全く出てこないわけではないですが少ない)でしょうか。まぁ下の身分の女性が成り上がるものの殆どは地位の高い誰かの妻になるものばかり(マビで多いですねこのパターン、ある意味当たり前ですが)ですからそれはそれでいまいちですし…。あとは処刑されるかもしれないヘリョンにお酒かけ過ぎなシーンもあまり気持ちよくはないですね…。

 ヘリョンが自分の地位の高さゆえに博識でいられることを指摘されるシーンもありますが、指摘する相手が男王族なのもちょっと微妙に感じました…。もちろん指摘そのものは正論なんですが「おま言う」感。指摘するならせめてヘリョンと同じくらいの地位の女性か、それより下の地位の女性であればより重みが増すんですけどね。

 さらに細かいところだと、リムと恋愛的に良い仲になったヘリョンが化粧をし始めるシーンも筆者的には残念に感じました。恋愛ドラマ的には王道なんでしょうが、つくづくジェンダーはオスが鑑賞する為にあるなぁと実感しますね。

  

 

『新米史官ク・ヘリョン』はおすすめ?

 歴史ドラマを観たいけどあんまり重たいものは苦手、ドロドロ系の話が苦手、拷問シーンが苦手、長過ぎるドラマが苦手、女性主人公と対立する女性が見たくないという方にはおすすめできると思います。全体的にコメディタッチで、全20話なので気軽に観れます。また単純に「朝議の時に書紀やってる人たちの仕事が気になる」という人にもおすすめです。ふつうに恋愛ドラマ(特に年上女性と年下男性の組み合わせ)が好きな人も楽しめると思います。個人的には、成均館の学生たちのその後が気になる人にもいいと思いました。ドラマ同士の直接の繋がりはありませんが、構図が理解しやすくなります。

 逆にヘテロ恋愛ドラマ自体が苦手だと辟易するかも…。ミサンドリー度もあまり高くは無いのでカタルシスも少ないと思います。そして、主人公のラストは『成均館スキャンダル』と同じオチですのでがっかりされる方もいると思いますね(なにがとは言わないが、結局は恋愛ドラマなので…)。

 

 しかし女性主人公の歴史ドラマが実質ヘテロ恋愛ドラマとしてしか描けないのは、何かの取り決めとか基準とかあるんでしょうかね…。舞台が時代を反映させる必要があるのは当然としても、みんな最後は男とくっつくというかなしみ。女性主人公の歴史ドラマがヘテロロマンティック・ラブから解放される日が来ることを願いつつ…。

 

 

 

※追記あり【雑談】私達は同じ女性だが、結婚もしないし子供も生まない単体女性だ。

はじめに

※追記

↓こちらのブログを拝見して、たしかにそう読めてしまうな…と感じたので一部修正しました。私の意図的には2番目で、反TRA/反TGismについては別記事で書く予定で、ここでは掘り下げすぎないようにするつもりでした。ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

私達は人間だ。そしてセックス女性だ。

http://lttlleo.seesaa.net/article/480494769.html

 

どうも、藍色です。また雑談かよレビューどうしたと言われても仕方ないですが、筆者のスタンスとしてハッキリさせておきたいことがあるので書きました。ざっくりいうと「単身女性が訴える反出生主義について筆者は賛同してる立場です」ということですね。この時点で反出生はカルトと思ってる方には相容れない記事だと思うのでスルーしていただいて構いません。でもせっかくなので読んでいただける方は、わざわざ単身女性が単身女性であること且つ反出生主義を主張している理由や背景くらいはおさえておいてほしいなと思います。少なくともやみくもに「共闘」を言ってるのではないと考えてるのなら。

 

「私達は同じ人間だが、障害者だ」をどう解釈してますか?

 この言葉ですぐにピンと来る方には筆者の結論とタイトルがすぐにわかると思いますが、言語化していきたいと思います。まず、この言葉は青い芝の会からの引用になります。青い芝の会がわざわざこれを言わなければならなかったのは何故か。それは「同じ人間」という一見平和的な言葉のなかで、自分たちの持つ差異が有耶無耶にされるのを危惧したからです。「同じ人間」だからと言っても、健常者なら車椅子は必要ないですし、同行援護もいらないし、日常生活を安全に送る上での薬もいらないし、手帳を維持する為の通院も必要ないし、感覚過敏を保護する為の衣服や耳栓やサングラスや食事も無くていいわけです。ノーマライゼーションバリアフリーと言っても、結局は健常者基準が標準なわけです。スロープの配置が妙に遠くても気にしないでいられるわけです。

 青い芝の会というと、女性の中絶する権利を恐れたミソジニーを思い浮かべる人もいると思いますが、ウーマンリブがあったにも関わらず障害者の女性はあえて青い芝の会にいるほうを選んでいた事例があるわけです。筆者もその事例を聞いた当時はあまりその女性の選択が理解できなかったのですが、今ならわかる気がします。女性運動のなかに「女性障害者」の枠が無かったからです。

 

「トランス女性は女性です」がダメな理由もわかりますよね?

 アンチ反出生の女性たちのなかには反TRAの方々も多いはずですよね。トランス女性という名目で実質身体的男性を女性身体用スペースに入れることのリスク、そして「性自認」という概念によって「女性差別」そのものの定義が崩されるリスク。つまりfemaleイズムそのものが瓦解されるリスクです。性自認を認めれば女性の概念は「性自認が女性の人たち」になり、性自認が女性の基準はジェンダーであり、女性差別は「性自認が女性の人たちが受ける差別」になります。これによって女性の身体的特徴により不利益を被った歴史は塗り替えられ、さらに女性の身体的特徴を訴えることそのものすら差別になってしまうというトンデモな事態が起きてますね。

 このトンデモに対してたーふ(笑)は何を主張したか。たーふ(笑)と罵倒された皆さんにはよくおわかりになられてると思います。「私達はセックス女性で、性自認が女性だったから、スカートを履いていたから化粧をしていたから差別され選挙権も無かったのではない。ただ生理があって、筋力も弱くて、レイプされれば妊娠のリスクがある女性身体者femaleだからだ。」と言う必要(=女性身体としての差異の可視化)が出てきたわけです。ちなみに月経不順や閉経等で生理のない女性も当然含みますね。そもそも月経不順も閉経も女性身体じゃないと起こりませんし。

 

「女性福祉」が無くて、「母子及び父子並びに寡婦福祉法」があるのが現状

 ところで「女性福祉」って言葉を聞いたことがありますか。筆者は大学で台湾の福祉制度についての本を読んでいた時に初めて目にした言葉です。その内実は平たく言うと母子福祉とDV被害者支援を併せたようなものでしたが、DVの加害者として認められる範囲が非常に広かったのを覚えています。配偶者による暴力はもちろん、その傍観者や加担者(つまり祖父母や親戚)まで含むもの。

 今現在の台湾の「女性福祉」がどこまでのものになっているかはわかりませんが、女性を支援対象として国が認めているという点に筆者は感銘を受けました。国が法制度にその名前を冠するのは良くも悪くも「社会的に弱者であるというお墨付き」になることを意味します(これもあって台湾は女尊男卑って認識してる人が多いんだろうなぁ…筆者は女男ともそういう認識の台湾人に遭遇しました)。あまり良い言い方ではないですが「弱者であると国から認定される」んです。

 ではここで冠する名前が女性ではなく母子なら?社会的に弱者であると認められるのは母子になりますね。つまりそれだけ可視化されるということでもあります。可視化されれば当然、言えることも増えますし「母子の」名のもと声が大きくなるんですよね。

 母子の貧困の本質は単身女性の貧困、男の庇護のない女性の貧困であるにも関わらず、です。単身女性の貧困を言わず母子の貧困を言えば言うほど、母子を強調すればするほど本質が隠されていくからくり。この時点で既に「同じ女性」じゃなくなってます。

 

搾取のなかでも、見えるものが優先される(既婚子あり女性>既婚女性>単身女性/母>姉>妹)

 可視化のされやすさはそのまま階級差に反映されると言ってもいいと思います。「女性が働きやすい職場」とか「女性に優しい〇〇」とか、そういう言葉に想定されている”女性”はほぼ結婚してダンナがいて子供がいる女性のことです。次点では結婚してダンナがいる女性、その次に将来結婚されるであろう女性、その次はジェンダー忠実度の高い女性、それ以外は想定外。この可視化のされやすさは言うまでもなく「男に都合がいい」度合いであり、男に都合がいいほど家父長制下の女性としての身分は高くなります。これは個々人の状況がどうであれ変わりなく、全体には大した影響を及ぼさない、単なる事実です。家父長制を維持してきているのは何か。「家族」です。その家族を作るのはだれか、「女と性交し妊娠させ生殖する男と、男と番い子供という人間を生殖し出産する女」です。この事実はすなわち「家父長制への加担」です。好きな人と一緒になっただけと主張するのであれば尚更「自分の意志で家父長制温存させてます」から言い逃れは無理ですし、ましてや「仕方なく」なはずがないです。

 また、その家族の中身(=家庭)はそのまま階級差を再生産させる場です。権力のある順に父親、母親、兄、弟、姉、妹。女きょうだいと男きょうだいの組み合わせならそのまま男尊女卑が反映されながら育ち、姉妹だけなら女性差別の序列を内面化しながら育ちます。これも男きょうだいとの格差は「わかりやすい」ので色んな人から話を聞けるでしょうが、姉妹間ならどうでしょうか。「我慢するお姉ちゃん(女性規範+ヤングケアラー)」は聞くし、なんならあらゆるフィクションですら見かけるけど「我慢してるのを無いことにされる妹」はフィクションでもあまり見ない。よくある構図は「しっかり者の姉と奔放な妹」か「姉に嫉妬して陥れる妹」か。社会からの認識も「妹だから姉と違ってのびのび育ったでしょ」です。のびのびしてるという言葉のもたらす効果は「お前は楽をしてる悪い子なんだから反省してわきまえろ(自分を罰しろ)」にほかならないんですが、これが非常に見えにくいようになっている。自分で見えないように下に下に埋まるように仕向けられているからです。見えないようにしなければならないので、何かを得てはいけないし、失ってもいけない。妹は姉より優秀になってはいけないし姉より苦労してもいけない。それに加えて「下の身分なんだから上を慮れ」があるわけです。「独身なんだから時間あるでしょ」も同じ。ようは、女性という時点ですでに下に置かれるのに、そこに更に下の身分が加わるほどその女性は消えていくということです。

 男と結婚し出産し家族を温存するということは、この仕組みをループさせるということです。

※親との権力差を示すためにあえて「子供」表記にしてます。「嫉妬」表記もフィクションの意図を反映してるのでこっち。

  

女性が言う反出生主義の意義=誰にも他者を利用する権利はないし、繰り返すべきでもない

 反出生主義・反生殖賛美の女性の主張はこれにつきると思います。子供は自分の生命を自分の意志で発生させることはできず、親の行為によって発生させられ、親の手によって生命を維持され、親の経済力によって進路を決められ、労働力として売られていきます。親がある程度自分の意志で(言い方を変えれば「好きで」)コミュニティを作り、参入し、解散させられるのに対し、子供にはそれができません。親は自分の意志で受精卵を着床させることはできなくても、着床を発生させる行為は可能です。しかし受精卵には意志はありませんていうか同意が取れません。つまり「同意の取れないところから無理やり連れてこられる」わけです。連れてこられ、参入させられ、子供として所有され、待遇に不服を唱えれば虐待、場合によっては殺されます。運良く生きても、男児は女性を踏みながら生き、女児はプレ母体として期待されながら生きます。成長した男児は試験で意図的に点数を引かれた女子の分を持っていき、点数を引かれた女子は将来を狭められます。誰かのムスコは必ず誰かのムスメを踏んで生きていきます。

 家父長制下において利用される他者は必ず「より弱い女性(女児)」です。母は娘からケアを引き出し、姉は妹を縮ませ、大人は女児にジェンダーを纏わせ、既婚子あり女性は子なし女性にシッターを期待し、既婚女性はダンナの稼ぎのぶん仕事をセーブし単身女性に背負わせ、稼ぎの足りない女性は誰かのダンナやムスコに買われ、家も仕事もない女性は誰かのダンナやムスコに殺されます。この構造は、家父長制を維持している限り続きます。

 自分より弱い立場の女性が利用され搾取されるのに反対している女性が、その根本原因である結婚出産を肯定するはずがありません。

 女性が反出生主義を表明するのは、自分の下にこれ以上弱者女性を敷かないという表明なんです。

 

おわりに 「同じ女なんだから共闘」←誰のために?

 私達は同じ女性だが、〇〇だ。の〇〇は言う理由があるから言っている。同じ女性という言葉のなかで消されていく女性は障害者であったり、単身であったり、妹であったりする。その差異を無視して掲げる「共闘」は、発言者の意図がどうであれ一番男に近い者のためにしかならない。現にナタリズム女性は「既婚女性は女性の中でも強者であると自覚してほしい」という指摘に対して「自覚しました。だから?」と返ってくる程度には単身の身分に無関心でした。「共闘」という言葉は欺瞞であり、なんの信頼性も無いことに気付いてるのが反出生女性たちです。そしてその信頼を崩してきたのは男と結婚し子供を供給してきた出生賛美の女性たち自身です。

 もし本当に共闘したいとか自覚してるとか言うなら、最低限事実だけは認めるべきですし、フェミニズムの旗振りながらそれとは真逆の結婚出産をアピールすべきではありません。