【雑談】私たちは男と恋愛しないが、ヘテロ女性/バイ女性だ。
はじめに
どうも藍色です。積ん読が多すぎて全然レビュー書けてませんが、Twitter見ててどうしても気になったので書きました。ミサンドリーなのでレズビアンになりました、とか。男性恐怖症なので同性愛者でしたとか。非恋愛なので選択的レズビアンですとか。
筆者の主張はもうタイトル通りなんですが。バイならバイだし、ヘテロならヘテロでいいじゃないですか。貴方のヘテロ性やバイ性は貴方の男性恐怖症やミサンドリーを否定するものではありませんし、逆も然りで、貴方のミサンドリーは貴方のセクシャリティを否定するものではありません。
バイセクシュアルを名乗りたくない?
まず、ブログ筆者の藍色のセクシャリティはバイセクシュアルです。筆者は多くのヘテロ女性と同じように男に恋愛感情抱いたことがあります。そして女性にも恋愛感情を抱いたことがあります。よってバイセクシュアルです。しかしミサンドリーなのでオスと恋愛するとか拒否感以前に無理だし、ましてや性愛とかおぞましいしで無理になりました。なのでバイセクシュアルだけど男と恋愛しません。終わり。
としたいところですがこの流れが何故か起こらず、ミサンドリーなので(或いは男性恐怖症なので)同性愛者です。みたいな主張がまかり通ってるのは何故なんでしょう?筆者なりに考えてはみたんですが、どうにも…「名乗りたくない」と思ってるとしか思えないんですよね…。というのも、彼らがバイセクシュアルという概念を知らないとは思えないのです。敢えてとぼけてるというか。
では何故「名乗りたくない」んでしょうか?それを考えた時にふと思い出したのが「LGBTはかっこいい」と言われたみたいな話をしていた動画でした(一応探してみたんですが見つかりませんでした…最後に見たのは確か4年前くらいです)。いずれにしても、流行りとしての人権活動とかライフスタイルとしてのフェミニズムに近いものを感じざるを得ません。
ちなみに今YouTubeでLGBT関連を検索するとほぼほぼジェンダーカルトですね…。パンセクシュアルの定義がいつの間にか「好きになる人の性別にとらわれないから男らしさ女らしさに惹かれない人」って紹介してるのもありましたけど、いつから恋愛や性愛はジェンダーに惹かれるのが前提になったんですかね(恋愛や性愛にジェンダーゲーム的な要素が含まれるというのはここでは触れない)。あれらはもはやセクシャリティとかの話題じゃないですよ。
仮に自衛として名乗らない・名乗れない現状があったとしても同性愛者を名乗れば良い理由にはならないですし、この手↓の場合はLを名乗っても解決しないですね。
消されるBと盗まれるL:結果としてヘテロは成立するが、結果としてレズビアンは成立しない
LGBTの概念は実質GGTTだというのは、いつものY性優先なのも含めてではありますが、ようするにBが消されてLが簒奪されてるからですね。上記の記事のB女性への視線も「コンテンツ化」で、Y性優先。Lの定義を「セックス女性を対象とするセックス女性」から「性自認が女性の人を対象にする」と変えてしまうのも、「ポルノコンテンツ」としてのレ◯呼びも、Y性優先。
同時に、Lは同性からも同じように都合良く扱われてますね。フィクションにおける「健気なL」はもちろんですが、筆者がここで一番書きたいのは「選択的レズビアン」とかいうやつです。オスを拒否し、女性との連帯を強化するという意味で「女は女を愛そう」というもの。この概念に直接の恋愛がどこまで含まれてるのかよくわからないんですが(たぶん、女性femaleこそ女性femaleのことを大事に考えようだと思われる)、女性との連帯や絆を名乗るのにわざわざ「レズビアン」を使うのは何故なんでしょうね。コンテンツとしての百合作品のテーマが女性との連帯/女性同士の絆を扱うことがあるのはわかりますが、「女性同士の絆=百合、レズビアン」ではないんですよ。
「男性恐怖症だから/ミサンドリーだから結果としてレズビアン」?言いたいことはわからなくもないですが、"結果としてレズビアン"は成立しないんですよ。”結果としてレズビアン”が成立しないのは、ヘテロ性とレズビアン性が非対称だからです。名誉男性や名誉白人が成立するのは、男性や白人が特権階級だからです。名誉〇〇の〇〇はマジョリティです。選択的黒人とか選択的女性とか言えるとしたらそれは元が白人や男性だからですよね。選択的女性はもうやられてますね、トランス女性って言うんですけど。
B女性がLと違うのは、なろうと思えばヘテロ擬態ができてしまうという点です。異性愛中心主義社会においてどんな人物も「ヘテロ前提」として見られてしまうのとは別で、B女性は両性を対象とする時点で「ヘテロに吸収される」ということです。この側面においてB女性はLからの信頼がありません。いつでも吸収される可能性があるからです。
そして皮肉なことに、B女性がB女性として可視化されるのは異性愛を経験したうえで同性と付き合う時だけです。同性に恋愛感情を抱いたことがあるだけで結局異性(つまりオス)と付き合うのであれば、それは結果としてヘテロ女性だからです。
ジェンダー(女らしさ男らしさ)に違和感あるから性別違和です的なものを彷彿とさせる
「LGBTはかっこいい」に通じるんでしょうが、 マイノリティ性に特別感を見出してるように思えてならないんですよね。マジョリティ/マイノリティは単に数の多さではなく、その関係の権力勾配がつきものですが、単に数が少ないからという理由で見てる。あるいは「自分は特別だ」と思うから、ジェンダーが社会的な影響を及ぼす概念だと気づかない。ジェンダー規範に違和感があるのは女性を抑圧し管理するためのツールだからですが、なぜか「ふつうの女性」は違和感が無いものと思ってるわけですよね。
「ふつうの女性」が違和感抱えつつ生きているとは思わないのは、「ふつうの女性」の人格を認めてないからですよね。「ふつうの女性」たちがジェンダー規範に違和感を覚えてて、自分の身体性や生殖機能に不快感を持ってて、社会的な地位のことを考えていて、男性に対して嫌悪感や恐怖症を抱えているのを想像してないんですよね。だから「シス」とか「X」とか言えるんでしょう。
あえてジェンダー規範に則るのが好きな女性がいるのは前提としても、ジェンダー規範に違和感を覚えるのは「特別」だからではなく、人格がある人間だからです。そして「ふつうの女性」も、人格がある人間なんですよ。
フェミニズムもミサンドリーもセクシャリティも「ライフスタイル」じゃないです
結論は結局これにつきると思います。フェミニズムもミサンドリーもセクシャリティも、個人の生き方やり方の問題じゃないんですよ。フェミニズムは女性が男性中心社会のなかで快適に飼われながら生きる方法ではないし、ミサンドリーは"結婚してもいい男"をサーチするためのツールではないし、セクシャリティは女性が"いい男"を見つけるまでの間ほかの女性を利用するための口実ではないんです。
フェミニズムは女性身体者(female)のための人権活動ですし、ミサンドリーは女性が生きるための防衛本能ですし、セクシャリティは身体性と同じただ性的指向の事実です。
そしてヘテロ女性やバイセクシャル女性がこれらを両立させるのは可能です。ヘテロ女性は恋愛や性的対象が男であるというだけであり、それは男と恋愛性愛しなければならない/男と恋愛性愛しなければ生きていけないという意味ではないからです。同じくバイセクシャル女性は恋愛や性的対象が女性と男性の両方であるというだけで、女性と男性と両方とも恋愛性愛しなければならない/しなければ生きていけないというものではないからです(こんな当たり前の事を言わなければならないなんて…)。
ミサンドリーのヘテロ女性/バイ女性、男性恐怖症のヘテロ女性/バイ女性、または非恋愛を貫くヘテロ女性/バイ女性は、ただ「男と恋愛しないヘテロ/バイ女性」なだけです。「男を対象としない女性」という点ではレズビアンと重なる点はあっても、それは「レズビアンと同じになった」ことを意味しません。
なので、
・ミサンドリーでバイ女性です。
・ミサンドリーで男性恐怖症で(以下同文)
・非恋愛でフェミニズム支持でバイ女性です。
と言いましょう。
ミサンドリーでバイセクシャルの女性(female)で反生殖賛美で脱コル実践中の藍色からは以上です。